当時の明石工場
(兵庫県神戸市西区伊川谷町潤和(神戸鉄工団地内))
明石工場

震災当時の様子について
藤原センター長(当時明石NC工場(現第2工場)現場責任者)(震災当時35歳)インタビュー~

震災直後の心境を教えてください。

明け方の5時45分頃、トラックが突っ込んできたような衝撃が加古郡稲美町の我が家を襲いました。
当時地震は関東で起きる災害という認識が強く、この衝撃が地震によるものという発想が浮かばず、 交通事故でも起きたのかと思い外に出ましたが何事も無く、その後ニュースで速報を見て初めて 「あ、地震だ。」と気がつきました。
稲美町は被害が小さく、食器棚のコップが割れる程度の被害で済みましたし、ライフラインの復旧も早く、 外部と遮断されるような状況が長期間続かなかった事が不幸中の幸いでした。

藤原センター長

当時明石工場はどういった状況でしたか?

当時は工場の社員数が20人ほどで、コンピュータ制御のプレス機が4台、昔ながらの汎用プレス機が8台稼働していました。
弊社の明石工場は神戸市西区にあるのですが、区内全体として被害が小さかったため、機械の破損は免れました。
鋼板置き場の機械が地盤沈下で少し沈んだりと、補修工事が必要だった被害もありましたが、人力でなんとかなる被害が多かった様に思います。

ただ困ったのがライフラインのストップでした。復旧作業を行うためには飲み水が必要ですし、電気が通らなければ機械の点検もできません。
3~4日で復旧したとは思いますが、出鼻をくじかれたこともあり、震災前の様に作業できるようになるまで2~3週間位かかったと記憶しています。
また、交通網が乱れ、大阪方面から製品が入って来ず、迂回路の交通網を利用して何とか製品を引き取りに行ったことも印象に残っています。

防災備品はどんなものを備蓄するべきだとお考えですか?

一番は水でしょう。食料は1~2日程度なんとかなりますが、水は1日無いだけでも致命的です。特に水洗トイレは一回の洗浄で数リットルの水が必要ですので、 お風呂に水を貯めておく等の対策も必要ではないでしょうか。
他にはカセットコンロとボンベがあれば温かいものが食べられますので有事の際にあれば便利ですね。

南海トラフ巨大地震に向けどのような対策を講じるべきだとお考えですか?

もちろん食料や水を備蓄することも大切ですが、それ以上に「知識・経験」が重要だと考えます。
家が揺れたとき、当時幼かった子どもを庇う以外、私は何もできませんでした。
アウトドアの経験があれば火を起こして寒さを凌いだり、道具を駆使することで避難後の対応に役立つかもしれません。
こういった知識は避難訓練などではなかなか身に付きにくいと思いますので、是非習慣として有事に役立つ知識・経験を習得していただきたいと思います。

また、年に数回の避難訓練(地震・火災)の実施では、人命を最優先とし、建物・設備の被害状況の確認を行うほか、災害時の初動対応を想定し、 防災倉庫を設置し、有事に備えています。
非営業時には、災害用の連絡網がありますが、連絡手段の強化の為、弊社災害用グループメールの一斉配信を行い、社員と社員の家族の安否確認を行います。

このような防災・減災への事前対策への取り組みにより弊社は「事業継続力強化計画」の認定を受けました。

当時の明石工場の様子