当時の神戸市内

震災当時の様子について
奥谷勝彦現会長(当時代表取締役社長)(震災当時55歳)インタビュー~

震災直後の心境を教えてください。

震災の当日は住吉台の自宅で就寝しておりました。
すると突然揺れに襲われ、まるで自分がホーロー鍋の中で揺すられる豆になったような気分でした。

幸い家族は皆無事で、地盤がしっかりしていた為家屋に大きな被害もありませんでしたが、
家の中はガタガタでした。特に開き戸の食器棚からはほとんどの食器が落下していました。
室内が簡単に片付いた午前9時頃、心配だった会社の状況を確認するため車を走らせましたが、
大渋滞で引き返し、翌日は徒歩で出発し、3時間半位かけて神戸本社に到着しました。

奥谷勝彦現会長

当時神戸本社はどういった状況でしたか?

18日に到着すると入口のシャッターが曲がっており、中に入る為に一度開くと閉まりませんでしたので、
1月の寒さに晒されながら、倒れている机や網棚を元に戻しました。
翌日19日は電話とFAXのチェックを行い、唯一倉庫の電話だけ繋がりましたので、1件1件、お客様に電話し、「奥谷金網は無事です。」とお伝えしました。

会社を守る為、最も苦労したことを教えてください。

震災後しばらくは、とにかく売り上げを立てる事に苦労しました。

当時は定期的に製品を納めるリピート品が多く、一度でも納入が遅れると信頼を失いかねない状況でしたので、何とか金網を仕入れる必要がありました。 金網の製造は大阪を中心にさかんであり、通常時は大阪から直接、神戸本社に納入していましたが震災直後はそれが不可能でした。
ですので、大阪~姫路営業所~明石工場~神戸本社と迂回して仕入れることでリピート品を絶やさず納入することができ、売り上げを確保することができま した。
当時は社員数が約20人、そのご家族を含めると100人の人生を背負っていたので、一心不乱でしたが、社員の皆さんも会社と自分の家族を守る為、とにかく 頑張ってくれました。本当に感謝しています。

南海トラフ巨大地震に向けどのような対策を講じるべきだとお考えですか?

阪神淡路大震災では、ジャンパー、軍手、リュックサック、帽子、ズックの「震災ルック」が流行しました。
どんな地震災害であれ、この装備は役立つと思いますので、備えておくと良いかもしれません。
また、先ほども申したように、開き戸の食器棚は衝撃で戸が開いてしまいます。
一方で、引き戸はほとんど被害がありませんでしたので、壊れやすいものは引き戸の棚で管理すると良いかもしれません。

当時の神戸市内の様子

1995年1月17日 阪神淡路大震災 地震発生の瞬間
関西で唯一生放送していた朝日放送のスタジオ
被災局サンテレビの記録 阪神淡路大震災